誰でも頭の中で起こっていることだと思いますが、自分と話している相手が言ったことを理解できなくても、それの意味を知ろうとせずに「うんうん」とうなづいて理解しているふりを 僕もよくやります
例えば、会話の中に「パブロフの犬」とか「セレンディピティ」という表現を相手が使ったとして、それらの意味を自分は知らないのに、あたかも「うん、それね」と言っているかのように相槌をうつようなことです
自分でも頭の中では、「彼が今言った意味は何だろう?」と思っていたりします
それを質問して意味を確認しなくても、会話として成立することは事実です
わざわざ会話を止めて、「今言ったそれの意味はなに?」と質問することが面倒なのか・・
それとも、会話を止めることが相手に悪いと感じているのか・・
多分、両方です
人間の心理は興味深いです
マルコム・グラッドウェルの、“blink”というタイトルの本を読んでいます
「直感」に関する本です
この本の中に、車のセールスマンの話が出てくるのですが、彼は「お客を見た目だけで判断しない」のです
僕も自分では人を見た目だけで判断していないつもりですが、この本を読み始めてから、「ちょっとまてよ・・」と思いました
例えば、「学生」と会った時に、無意識にお金持ちではないだろうと勝手に判断していないだろうか
職業が「農家」というだけで、この人に英語は必要ないと勝手に判断していないだろうか
無意識レベルでは、人を見た目だけで判断していることは多々あるような気がしてきました
このセールスマンは、そういう意味で、「人を見かけだけで判断」せずに、きちっと一人ひとりの話を聞くようにしているらしいです
そして、彼の営業成績は、会社の中で飛びぬけていいらしいです
興味深いです
ちなみに、“blink”を日本語に翻訳してあるのも売っているはずなので、興味がある方は調べてみてください
昨日はNさんとレッスン後にこんな話になりました
「インターネットを使うときの自分たちの言葉使いが敬語だったりタメ口のような表現だったり変化するのはなぜだろう?」
例えば、僕はこのブログをほぼ敬語に近い表現で綴っています
mixiではかなりカジュアルな言葉使い、twitterはほぼ敬語のスタイルです
友達にブログのコメントをしたり、コメントを返したりするときはもちろんタメ口です
Nさんも、言葉の使い方は同じネット上でも、使い分けていると話していました
コメントのような会話に近いものは、何となく相手によって使い分けることは理解できます
ブログやツイッターなどのような「誰に話しかけるわけでもなく、独り言のようなもの」に対して言葉をほぼ無意識に使い分けている自分が不思議です
仕事に慣れてしまうと、考えなくてもできてしまうところが恐ろしいです
あまりにも考えることを忘れてしまうと、今自分が何故これをやっているのかも思い出せなくなる可能性もある気がします
これは仕事だけでなく、自分がやっていることほとんど全てに対して言えるかもしれないです
例えば子育てだったら、なぜ子供が水泳の習い事をやっているのか、その習い事を子供がやめたいと言っているけれども、続けさせる理由は何か?
子育てに対しての全体のビジョンが「根気よく物事を続けさせる」だったら、少々やめたいと言ったくらいでは続けさせた方が良さそうです
ビジョンが「子供に沢山の経験をさせてあげたい」だったら、子供が違うものに興味を持った時点で水泳をやめさせて、新しいことに挑戦させることもいいことだと思います
もし僕が何かに迷ったら、「全体のビジョンは何だったか?」、「そもそも全体のビジョンを持っていたか?」を自問していこうと思います
今日はまだ明るいうちに散歩を楽しみました
同じコースを歩いているのに、いつも夜になって暗いときに歩くのと、景色が違って見えます
夜に歩いていたときには気が付かなかったけど、「ここに酒屋があったのか」とか「あれ、ここに床屋があることに今まで気が付かなかった」ということが沢山ありました
意識を変えて見ていないと、目に入っているのに記憶に残らないものがあるのは不思議です
ということは、自分の教室も、この教室の前を通っている人に気づかれていないということもあるってことです
もったいないな~
もっと目立つ看板にしてみようかな